その名を、呼ばれたくなかった 第6話

名前のない夜

名前のない夜――それは、誰かの人生を背負えずに逃げた夜かもしれない。
No.2・レンは、“レン”という名に込めた秘密を抱えながら、静かにその夜を生きていた。
新人ホスト・ハルキがその背中に触れた時、夜の記憶がふたたび揺れはじめる――

名前のない夜-誰が“自分”を語れるのか

「レンさん、今日のお客さん……最後、泣いてたみたいでした」

同伴帰りの早朝、ネオンの色が消えかけた通りで、ハルキは思わず口にした。
いつものように煙草をふかすレンは、すぐには答えず、ただ曖昧に笑って見せた。

「泣くのって、案外いいことなんだぜ。涙の分、次は笑えるって思えるからさ」

その言葉に違和感を覚えたのは、なぜだっただろう。
言葉はやさしいのに、声がどこか遠くて――まるで“自分のことじゃない”みたいだった。


名前のない夜が始まった“あの日”

数年前、レンがこの店に来た日のことは、店長もよく覚えているという。

「で、名前は? 本名じゃなくていいよ。売れる名前、ある?」

数秒の沈黙ののち、彼は短く答えた。

「……レンでお願いします」

その瞬間、何かを切り捨てたような、そんな静けさがあったらしい。
“レン”という名は、記号であり、仮面であり、なにより“本当の自分”からの逃避だった。

けれど、本当に逃げきれるのだろうか?
どれだけ名前を変えても、過去は胸の中で名乗り続けてくる。


名前のない夜を生きるということ

店内では、レンは完璧なホストだ。
トークはスマートで、客の心のスイッチを見つけるのが異常に上手い。
今日も女性客の一人が、レンの軽口に涙を浮かべていた。

「優しさが、うまく言葉になる人なんですね」

と、ハルキは帰り際につぶやいた。
だが、レンはその言葉に何も返さなかった。

まるで――“それを否定したかった”かのように。


名前を捨てても、消えないものがある

営業が終わった店内、誰もいないロッカールーム。

レンは、名刺ケースから1枚の名刺を取り出した。

そこには、源氏名「レン」と金文字が光っている。

静かにロッカーにもたれながら、しばらく名刺を見つめる。

ふと立ち上がり、ゴミ箱の前へ。

指先がその名刺を、少しだけ傾けるように持ち上げた――

その瞬間。

「それ、捨てちゃうんですか?」

背後からハルキの声がした。

レンは驚いたように振り返り、少し照れたように笑う。

「……捨てないよ」

そう言って、名刺をそっとポケットに戻した。

ハルキは、少しホッとしたように微笑む。

レンはふと視線を落としながら、静かに言った。

「……あれ、本当の“俺”の名前じゃないからさ。

誰かに呼ばれても、ちっとも嬉しくない」

そして、少し遠くを見るように――

「夜の中で、名前なんて、時に嘘のほうが都合がいいんだよ」

ハルキは、何も言い返せなかった。

ただ、心のどこかで、

“名前を持たない夜”を生きる先輩の背中が、やけに孤独に見えた。

Numbers ナンバーズ – 夜を生きた男たちの記録 

第7話に続く

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