『捨ててと言った名刺|夜の名刺』短編集 第2話

夜の名刺 小物入れの名刺

雨の筋がフロントガラスを走って、さっきの男の匂いだけが車内に残った。
香水。煙草。乾いた息。
そして、名刺を握りつぶさないようにしまった指先の、妙な丁寧さ。

俺はメーターをゼロに戻す。
それだけで、夜はなかったことみたいになる。
けれど、ああいう瞬間だけは、消えない。

無線が鳴った。歌舞伎町、ホテル前。
了解、と返して、車を出す。
だから俺は夜専なんだと思う。考え始めたらハンドルが重くなる。
それでも走る。止まれない。

次の客は、若い男が二人。スーツの襟が派手で、髪だけがやけに整っている。
「今日さ、指名飛んだのマジ痛い」
「でも明日、締め日だろ? 取り返せる?」
ホストってやつだ。言葉は軽いのに、数字の話だけは骨がある。

赤信号で止まったとき、俺はつい、さっきの男の「捨てて」が蘇る。
捨てて、は簡単だ。
しかし“捨てたこと”の責任は、誰も拾ってくれない。

二人を降ろして、また一人になる。
川沿いに向かう道で、俺はダッシュボードの小物入れを一度だけ開けた。
当然、空っぽだ。
それなのに、そこに何かが残ってる気がする。紙の重さじゃない。迷いの重さだ。

俺だって、迷いを抱えたまま走ってる。
夜に出るのは、好きだからじゃない。
昼の給料じゃ、子どもの学費とローンが噛み合わない。
だから、終電のあとに呼ばれる側に回る。

ホストも同じだろう。
「捨てて」と言えるほど追い込まれて、でも降り際に「やっぱ返して」と戻る。
あの紙一枚が、明日の自分の“肩書き”をつないでる。

次の信号で、また無線が鳴った。
俺は返事をして、ウインカーを出す。

やめられないのは、あの人だけじゃない。
俺も、夜に呼ばれるのをやめられない。

夜の名刺 小物入れの名刺 夜の世界にはそんな風情があります。

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